演劇との出会い


僕は小さい頃から、目立ちたがり屋だった。

でも、幼稚園の頃なんか、大体みんなはしゃぐのが好きだろう。僕もその1人だった。もちろん、引っ込み思案なタイプもいるだろうが、その場に打ち解ければ、みんなはしゃぐのが好きなはずだ。

小学生の時、僕は自作の歌を作って、休み時間にみんなの前で歌った。
なんとも拙い歌だ。今思えば、よくあんな歌を歌ったもんだと思うが、小学校低学年の頃の僕は恐れを知らなかった。

もちろん、恥ずかしがり屋な一面もあり、お正月など親戚のおじさんの前ではもぞもぞとしている子どもだった。

小学生の時の夢は漫画家だった。絵を描くことが好きだからという単純な理由だ。野球少年がプロ野球選手を目指すのと同じだ。

中学生の時、テレビドラマを観ていた。中3の夏くらいだったと思う。その時、テレビに出ている同世代の人たちに憧れを持った。俺もこの人たちみたいになりたいと思ったのだ。その時は、演技がしたいとかそういう真面目な気持ちではなく、この人たちみたいに目立ちたいという安易な考えが大部分だったと思う。

芸能界を目指そうとかそういうことも少し考えたけど、それは自分の中で遠い存在で、お金もかかるだろうし、そういうのは違うなと思い、高校に入ったら、とりあえず、演劇部に入り、芝居というものを知ろうと思ったのだ。でも、ミュージシャンをやりたいとかそういう別の目立ち方を志そうとは思っていなかった。理由は、僕が音痴だからミュージシャンは違うなというのもあるが、自分の中で、お芝居をすることに対する憧れみたいのは少なからずあったのかもしれない。
小学生、中学生の頃、好きな授業は国語だった。理由は、みんなの前で、教科書に載っている物語を読むことが好きだったからだ。みんなの前で、読んで表現をする。そのことに快感を覚えた。


中学生の時は、自分の学力で行けそうな高校の文化祭に行き、演劇部の公演を見て回った。そこでここだ!と思った高校が、入学した高校だった。
しかし、当時の僕は学力は学年でも大分下の方で、僕が目指した高校は、学力的に高くもないが低くもない平均的なところだった。中3の夏まで北辰テストでは、毎回合格率10%未満で戦慄していた。
水泳部を引退して、受験勉強をし、なんとか合格することができた。公立高校で、私立を併願していなかったので、もし、受験に失敗していたら、演劇と出会うこともなかったかもしれない。その時の自分を恐ろしくて想像できない。


高校に入学し、演劇部に入部した。

演劇部というのは、顧問の先生によって、その強度が決まる。

僕の行った高校は、正解の高校だった。顧問の先生は、しっかりとした演劇理念を持つ方だった。しかし、とても変人、というか、鬼神というか、世界の蜷川幸雄のような怖い先生だ。さすがに高校で灰皿は投げないが、怒ると雷を喰らったかのような衝撃を放つ。
高校では有名で、みんなから恐れられていた。でも、わかる人にはものすごく尊敬される、そんな先生だった。

先生にはたくさん怒られたけど、演劇というもののなんたるかを教わった。

今では僕の人生で一番の恩師である。卒業後も、たまにサシ飲みをしては、人生相談に乗ってもらったりもする。当初では全く考えられない。

高校一年生の夏、プロのお芝居に連れてってもらった。初めて見るプロの芝居だ。

その日は、演劇のすごさを初めて実感した日だった。
役者の方々の立ち振る舞い、声量、台詞に圧倒された。照明、舞台美術、音響などなど、とにかく感動させられた。

もちろん、それまでも演劇部として活動していて、本読みなどをしていて、まあこんなものかと思っていたのだが、僕の中で、本物の演劇を見て、演劇の価値観が変わった。

僕はその時初めて演劇は目立つことではなく、表現活動なんだということを理解した。

そこから少しずつ自分の中で役者という職業がただの憧れから、本気の夢としてシフトしていった。

趣味、映画

もしお金の制約がなにもなかったら映画をつくりたい。

 

映画監督を職業にしたいかと言われるとそういうわけではない。

 

 

 

僕は舞台をメインで、役者として活動していた。お芝居で飯を食っていこうと考えていた。しかし、お芝居で食うことを現実的な面で諦め、でも、お芝居をやめるというわけでなく、趣味として続けていこうと考えていた。

 

しかし、舞台をやるのには拘束時間や、稽古時間のスケジュールが難しい。

だから、ひっそりと映像作品を個人的に作ろうと考えていた。もちろん、映像作品だって、たくさんの役者を揃えようとするならば、色々と難しいだろう。

しかし、僕は小規模で、それこそ、友達とどこかに遊びに行く感覚で、ちょっと映画撮ろうぜ!という感じで、今までの役者仲間の何人かに声をかけて撮ろうと思っていた。

 

カメラはiPhoneで撮る予定。今はiPhoneでも映画が撮れちゃう時代なのだ。

 

しかし、僕は今まで舞台をメインとして活動していたので、映画のノウハウがよくわからない。今度、知り合いの映像作成の現場に参加させてノウハウを学ぶつもりだ。

 

 

役者は知り合いの何人かに出てもらい、カメラはiPhoneで撮る。

なんと素敵な趣味だろうと自分でも思う。

 

おっと、ここまで聞くと、一切お金がかかっていない。

 

ここから先は、僕の理想だ。

 

僕はiPhoneで撮るというのは変わらずに行きたい。そのマイナーな感じが好きだからだ。

 

しかし、そこに、無駄に豪華なスタッフ陣を組みたい。

 

まず、僕は脚本が書けないので、脚本をプロの方に頼みたい。

ここはクエンティ・タランティーノに頼みたい。

日本人じゃないのかよ!とツッコミがありそうだが、お金の制約はないので、とにかくお金の力を使って、クエンティ・タランティーノを呼びたい。

 

クエンティ・タランティーノとは、映画好きなら誰もが知っているアメリカの映画監督であり、脚本家でもある。

 

日本人の栗山千明が出演した「キル・ビル」、ブラッドピッドが出演していた「イングロリアス・バスターズ」などが有名だ。

僕は、「パルプ・フィクション」や「レザボア・ドッグス」が好きだ。

 

そうだ、監督も彼に頼みたい。

ただ、お金の力を使って、彼にこうしたいと意見を言えるような権力ではありたい。

 

クエンティ・タランティーノiPhoneで映像作品を作る。それだけでワクワクしてしまう!

もちろん、僕は出演させていただく!できれば主演がいい。いや、もうここは主演をやらせていただこう。

 

日本を舞台にした作品にしたいので、俳優陣は基本的に日本人を揃えたい。仲の良い友人も呼ぶ。

しかし、日本人で共演したい俳優さんがいる。香川照之さんだ。香川照之さんの演技は凄い。目力がハンパじゃない。香川照之さんが日本の俳優で1番好きだ。

 

タランティーノには、どんな脚本を書いてもらおうか。

僕がやるとしたら、派手な作品よりかは、身の回りで、iPhoneを活かしたスタイルで、作りたい。

 

現実世界でiPhoneのホームビデオを撮っている、という程の作品にしよう。

 

それなら、iPhoneの良さが更に引き立つ。

 

それで、タランティーノに脚本を考えてもらい、監督もやってもらおう。

 

加えて、香川照之さんにも出演してもらおう。しかし、主演は僕がやらせてもらう。

 

考えただけでもワクワクが止まらない。

 

でも、お金がなくても、僕は必ず映像作品を作るのだ。

 

どうすれば人は満足して生きることができるのだろう。そんなことを模索しながら生きる日々だ。

 

 

おわり

 

 

 

 

 

免許合宿

 今年の10月、免許を取りに免許合宿に行ってきた。そこでの出来事が、自分の中で1番大きい出来事だったので、話したい。

 

免許合宿は約2週間。買ったばかりのスーツケースに、たっぷり服と服を入れ、ガラガラと引きずって、静岡県浜松市にある自動車学校に行ったことを思い出す。

 

免許合宿は免許を取るため、自動車の運転について学ぶ場所だ。それはわかっている。でも、行くからには、そこで出会う者とも楽しみたい。そんな気持ちが仄かにあった。

 

僕と同じ日に入校したのは13人。男性8人の女性5人。年齢はバラバラだったが、20代前半が多かった。この人数は多い方らしく、少ないときは5人の日もあるらしい。

 

色んな人がいた。授業を取り終えた大学四年生もいれば、元教師、元ホストなどもいた。10月という中途半端な時期に免許合宿に来るというのは、少し事情のある人が多かった。僕もその1人で、元役者というカテゴリーに入る。

 

 

先ほども言ったが、免許合宿の同期の人とせっかくならば仲良くなりたいと思っていた。1日目は当然ながら、皆緊張感が漂っていた。

免許合宿は、普通の学校生活とも違い、仲良くする必要はない。1人で合宿生活を送る人もいる。

僕の同期にもそういう風に考えている人は何人かいたみたいだが、結果から話すと、13人全員仲良くなった。

 

僕は初めての人と話すのが得意な方だ。とにかく、まずは話しかけてみるというのをモットーに、人とコミュニケーションを図る。

もちろん、人によって温度差がある。そこを上手く感じ取り、この人は慎重に話をしよう、この人は少しふざけた話をしよう。当たり前かもしれないけれど、そんなことを考えながら人とコミュニケーションを取る。それができるようになったのは、演劇をやっていて、人の気持ちに敏感になったというのが大きい。

 

もう1つ、話しかけるときは、名前を必ず呼ぶこと。

13人もいると、名前を一気に覚えるのは難しい。そういうときは、惜しげも無くもう一度聞く。まずは自分の名前をもう一度名乗って、相手の名前を聞く。

次の日には、全員の名前を把握することができた。周りも僕が名前を呼んでいるのを聞いて、他の人の名前を覚えていった。

 

 

これらの行為により、全体の空気を軽くしていくことができた。始めは緊張感がただよっていたが、3日目も経てば、みんな名前を呼び合って仲良くなっていた。

 

この火種を作ることができたのは、自分の力かなと少し自負している。

 

1週間も経てば、合宿生活にも少しゆとりができ、親睦会を開くことができた。これにより、更に仲良くなった。

 

この時に、関西出身の女性が、好きな男性のタイプは面白い人と言っていた。

 

僕は彼女のことが少し気になっていた。と、同時に、役者としての血が騒いだ。

僕は彼女のことを笑わせなければいけない。

 

次の日から、免許の方も第二段階になり、少し忙しくなる。

 

その日の夜、寝る前に僕は考える。何かできないだろうか。

その時、ふと思いついた。

 

合宿所は、男子寮と女子寮の建物が分かれている。しかし、建物同士が向かい合っていて、窓同士で向かい合っている。窓から女子寮を見て、思いつく。

そうだ、この窓から、コントをしよう。しかし、うるさくしてはいけないから、静かにやろう。

言うなればそう、

「サイレント・ウィンドウ・コント」

だ。

 

 

内容を話す前に、この「サイレント・ウィンドウ・コント」をやる前に、1人協力者を呼んだ。

同期に元ホストがいる。彼は陽気で、それでいて肥満体型で、お前はその体型でよくホストをやれていたなと誰もが思っていて、割と口にしている人も多かったが、彼はそれをネタにしてしまうくらいの明るい性格だった。

合宿生活は、彼と一緒にいることが1番多く、僕がお芝居をやっていたというと熱心に話を聞いてくれて、今度一緒にお芝居をしたいねという話もしたくらいだ。まさかこんなに早くやる機会が来るとは2人とも思わなかった。

 

内容は実にくだらない。その前日に共同浴場で、彼にトドっぽいねという話をして、浴槽の縁から浴槽に転がり落ちてもらって、それが可笑しくて、これだ!と思ったのを覚えている。
 
思いついてから3日後の夜。トドのショーというのを窓枠でやった。僕は飼育員役で、彼はトド役。トドには、上裸になってもらった。それは見るからにトドで、愛らしくも見える姿だった。

始めはボールでトドとのショーを楽しんでいたが、後半は、餌やりと称して、ポップコーンを1つ摘んで口に投げというのを繰り返し、最終的に余った大量のポップコーンを一気に彼の顔に流すというトドのショーとはかけ離れたことをした。
最後には、1.5リットルのコカコーラを一気飲みするという、本当に関係ない、今時芸人でもやらないことをやらせた。彼は半分も飲まず終わった。最後、吹き出して終わりにして欲しかったが、普通に、あ、無理って感じで、口から離した。その件については後でダメ出しをした。

 


彼女は笑ってくれた。実は彼女は水族館でアルバイトをしていて、それもトドのショーをやるきっかけになった1つである。

 

それがとっても嬉しかった。

 

と、同時に、僕はお芝居を、このような日常にも、入れられるということに気づいた。

 

お芝居は普通、稽古して、劇場を借りて、その劇場で公演を打つ。それが普通だが、時間もたくさん取られ、大変な作業である。

 

もちろん、クオリティの面ではまた違った話になるが、こんな気軽に日常に芸を挟むことができるのは、とても良いことだなと思った。

 

 

免許合宿ももうすぐ卒業という頃、また飲み会が開かれた。僕はその時、居酒屋で元ホストの彼と漫才もして全体を賑わすことに成功をした。

 

 

 

免許合宿は、車の免許を取る場所である。そんなことは、わかっている。

 

ただ、車の免許以外にも得られることがたくさんあった。

 

 

 

合宿免許最終日の前日に、僕は彼女に告白をした。 彼女の返事は、2週間ぽっちで付き合う付き合わないを判断できないという返事だったが、結局少し考えると言ってくれて、次の日、OKの返事をくれた。僕と一緒にいるのが楽しいと言ってくれた。

 

 

 

免許合宿での生活は僕にとって、大きなものとなった。

帰り道、約2週間ぶりにスーツケースを引きずる。ただ今回は、2週間の旅で出会った者と別れの寂しさも引きずっていた。